2025年
ーーー1/7−−− 女医さんにプレゼント
昨年の年末も押し迫った12月27日、穂高病院の整形外科へ出向いた。骨折の経過確認の診察を受けるためである。手術以来診察を重ねてきたが、医師から指示される診察のスパンはだんだん空くようになり、この日はおよそ2ヶ月ぶりであった。手術からは、既に4ヶ月経っている。折れた骨が癒合するまでの期間の目安は3ヶ月と聞いていたので、この日が最後の診察だと予想した。私の担当は、若い女医さんである。手術も彼女が執刀したそうである。最後の診察にあたり、記念の品を差し上げようと思い立った。そういう行動を取る患者は多いのかも知れない。診察室の彼女のデスクの棚には、小さな瓢箪の飾り物がぶら下がっている。若い女性に瓢箪とは、ちょっと意外な取り合わせ。おそらく、私のような年配の男性が、記念にプレゼントした物ではないか。勝手な想像だが、そう考えると辻褄が合う。
差し上げる品は、登山者向けの象嵌アクセサリーの中から「燕岳」を選んだ。ちゃんと商品パッケージの袋に入れ、ポケットに入れて自宅を出た。渡すタイミングは、診察が終わってお別れする直前と決めた。
病院の待合室は、年末なのにすごく混んでいて、長い時間待たされた。ようやく看護師に呼ばれて診察室に入ると、それまでと違って、女医さんの他に若い男性のアシスタント医のような人がいた。
医師は一般的に、診療に対するお礼を受け取らない。そういう認識があったので、今回も「お礼」ではなく「記念の品」という言い方で渡そうと考えた。それならたぶん受け取ってくれるだろうと思った。しかし、想定外のアシスタント医が脇にいたので、ちょっとひるんだ。同僚がそばにいては、彼女も態度を固くするかも知れない。
診察の結果、骨折部はまだ完全に癒合していないことが分かった。エックス線画像で、骨の間にわずかな隙間が確認されたのである。それで、また2ヶ月後に診察の予定が組まれた。これも予想外であった。最後の日に渡すのが恰好良いと考えていたので、またしてもひるんだ。このように、他人から見ればどうでも良い事に、細かく気を使ってモジモジする様は、まるで若かりし頃の、愛しい人とのデートである。
最後に女医さんが、「ではまた次回に」とあっさり言ったとき、急にふっ切れてタイミングを感じた。ポケットから品物を取り出し、「私が作っている物なんですが、記念に差し上げます。受け取って貰えますか」と言った。彼女はちょっと驚いた様子で、しかし嬉しそうに、「頂いてよろしいのですか」と手を出した。私はすかさず、「この品物を見て、燕岳で骨折をしたあわれな登山者を思い出して下さい」と述べた。すると意外にも、脇で見ていたアシスタント医が声をあげて笑った。
自作の小さな品物を、ちょっとしたお礼や記念に誰かに渡すという事は、これまでもあった。品物は商品のグレードである。相手は恐縮し、また、好みの問題はあろうが、たいていの場合は喜んでくれる。そんな時、この仕事をしている幸せを感じたりする。
ーーー1/14−−− 転ばなかったのがいけなかった
昨年8月、登山中に転倒して骨折をし、その後色々な場面で、その事件について話をする機会があった。私は、話をするたびに、長年に渡って登山を行なってきたが、これまで山の上で転倒をした事など無かったと述べた。なんだか言い訳がましいが、これはほぼ真実である。若い頃の無茶な登山は別として、社会人になってからは、登山道で足を滑らせて転んだ事は、記憶の限り一度も無い。何故そう言い切れるかと言えば、絶対に転ばない事を、自分のモットーとしてきたからである。そういう心構えで登っているのだから、記憶は確かである。
何故そのようなモットーを抱いていたか。山は平地と異なり、ちょっとした事故でも重大な事態に至る可能性がある。ちょっと足を滑らせて転倒し、足首を捻挫でもしたら、程度が悪ければ歩けなくなる。そうなれば、自力での下山はできなくなる。パーティーで登っていればメンバーに多大な迷惑をかけるし、単独登山であれば救助を要請する事態となる。たまたま下界との連絡手段が使えず、しかも通りがかりの登山者もいない状況だったら、その場で一晩過ごさなければならない事もありうる。そうなれば、もう遭難騒ぎである。だから、絶対に転んではならないのである。
私が、骨折事故の話をするたびに、このことを口にするのは、自分が迂闊な登山者ではなく、明確な安全意識を持って行動している事をアピールするためである。そんな事を述べても、事故が起きた事実は変わらないし、事故を正当化できるわけでも無い。しかし私としては、他人が私の話を真面目に聴いてくれそうなシチュエーションにおいて、自分の登山観を述べ、できれば聞き手がそれを理解し、参考にして貰えればと願うのである。
私が前述のモットーとその理由を述べると、たいていの人は「なるほど」という反応を示す。そして、「それほど気を使っていても、怪我をすることがあるのですね」などと同情を寄せてくれる人もいる。
ところが、ある人は全く違う反応を示した。「大竹さんは、これまで一度も転んだ事が無かったから、いけなかったんじゃないですか」と言うのである。ようするに、転ぶことに慣れていなかった私が、初めて経験した転倒で大事に至ったと。
2024年4月の本コーナーに、「軽度の事故は好ましい」という記事を書いた。そこに書いた「危ない事」を、自ら実践してしまったような気がして、私はギョッとした。
「絶対に事故を起こさない」と心がけ、その結果「無事故で通せた」というのは、立派な事ではあろう。しかし、その奥に、全く無意識のうちに、別次元の危険が潜んでいるとしたら、どうだろうか。
車の話になるが、私は運転免許を取得したのが30台後半と、遅い方だった。だから運転歴は35年程度であるが、これまで事故を起こしたことが無い。常にゴールド免許である。
なんだか不安になってきた。
ーーー1/21−−− 昔の高校受験
東京都国立市にある都立K高校の生徒たちの活動が、テレビで紹介された。私は高校生の頃、その付近に住んでいたので、懐かしかった。私がテレビを見ながら、その高校の所在地や周囲の環境などについて話すと、カミさんは「あなたは何故その高校へ行かなかったの?」と言った。自転車で行ける範囲だから、そこに通う選択肢もあったのではないか、という問いである。私は、中学生の頃は、東京都中野区で暮らしていた。通っていたのは、中野区立第三中学校。高校進学となると、まず頭に浮かぶのは都立高校だったが、その当時は学校群制度であった。複数の高校が地域ごとにグループ化され、それを学校群と呼ぶ。受験は学校群単位で行い、合格したら行先は機械的に振り分けられる。だから、希望の高校へ入れるとは限らない。
家庭の都合で、中学を卒業するタイミングで国分寺市へ引越すことが決まっていた。国分寺市の周辺の学校群は、たしか72群だったと記憶している。そこは冒頭に述べたK高校を含む二つの高校がセットになっていたが、レベルが高く、私の学力では合格できるかどうかわからないと、中学校の担任から言われた。
そこで1ランク落として、別の群を受験した。そこはS高校とI高校がセットになっていた。S高校は進学向きの学校だったが、元は女子高だったというI高校は、のんびりとした校風だったようである。私は受験にパスしたが、I高校に回された。担任の先生は、「I高校では大学進学に不利だから、T高校に決まりですね」と言った。T高校と言うのは、同時に受験した私立高校である。難関高校だったが、どういうわけか合格して、親も先生も浮かれていた。それで、T高校へ進む事になった。
T高校へ入学したのは、私の生涯の大失敗だった。問題点はいろいろあったが、今さら恨み言をくどくど述べても仕方ない。基本的な事だけ述べておこう。
その学校は、中高一貫の男子校で、ごく僅かな人数を高校入学時に募集した。私のように高校から入ったものは「新高1」と呼ばれていた。そのような事で、あからさまな差別を受けたわけでは無いが、途中から入り込んだ者は、言わばよそ者であり、異端者であった。そして、公立の中学校と、私立の中高一貫男子校では、校風が全く違う。そのギャップが、災いとなった。入った当初から、生徒にも、教師にも、そして学園全体にも、馴染めなかった。そのわだかまりは、3年間消えることは無かった。高校生活を通じて、心から楽しいと思った事など、一つも無かった。まさに灰色の高校生活、灰スクールだったのである。多感な青春時代を、あのような境遇で過ごしたことを、私は今でも悔やんでいる。
さて、これで冒頭のカミさんの問いに対する答えは出たわけだが、あの時もし都立I高校へ入学していたらどうなっただろうかと考えた。男女共学の、普通の高校で過ごす3年間は、灰スクール(T高校)とは全く違うものだったろう。そして、その後の人生はどのようになっていたか。別の進学、別の就職、別の出会い、別の結婚、別の子供、別の孫・・・
こんなことを話して聞かせたら、カミさんは神妙な顔をして、「もしあなたがI高校へ進んでいたなら、私は今ここに居なかったでしょうね」と言った。それに応えて、私は言った、「俺だって、ここには居なかっただろう」。
ーーー1/28−−− カミさんの読解力
ブログに、我が家の柱時計に関する記事を書いた。ゼンマイ式の振り子時計なので、週に一回決まった日にゼンマイを巻くという話を、画像を添えてアップしたのである。それに対して、常連の読者さん、見知らぬ木工家の方から、コメントがあった。「こんにちは
20年前にお客様から 中身はいらないので中に人形棚の製作依頼あり
時計を動かすとちゃんと動き、逆にケースを作り大事に使用してます
1960年製の愛知時計の物です」という文章である。
これを読んで、私には何の事かさっぱり分からなかった。内容が理解出来なかったのである。頭を悩ませた挙句、近くに居たカミさんに話して聞かせた。そうしたら彼女は、「あら、分かるわよ」と言った。
彼女の解釈はこうであった。「20年前にお客様から、時計を預かり、改造を依頼された。時計のムーブメント(時計本体の機械部分)は要らないから取り外して、ケース(外装)の中に人形を飾る棚を作って欲しいとのリクエスト。ムーブメントはちゃんと動いたので、それを入れるケースを作り、大事に使用している」。そしてカミさんは、我が家と同じような形の柱時計なんじないかしら、と付け加えた。
なるほど、そういう事だったのかと、納得した。そう言われてあらためて見れば、確かにそう読み取れる。文章の読解能力は、私よりカミさんの方が上のようである。ちなみに、コメントにあった愛知時計をネットで調べたら、1958年製の柱時計の画像があり、我が家の時計とよく似た形だった。
私が理解できなかった原因を探ってみたら、思い当る節があった。私は、思考の癖として、対象の物を客観化、一般化する傾向がある。それは、若い頃から理系の分野で過ごしてきたためだと思われる。今回の例で見れば、コメントの中の時計という言葉を見て思い浮かべるのは、現代社会で一般的な、腕時計、置時計、壁掛け時計などである。ケースに入った旧式の柱時計など、対象外。だから、コメントを読んでもチンプンカンプンだったのである。しかしカミさんは違っていた。今回の話の発端は柱時計なのだから、くだんのコメントに登場した時計も、我が家と同じような柱時計だと見抜いたのである。
私のような者を、頭でっかちで、理屈っぽく、気が利かない人間と言うのであろう。
参考までに、我が家の柱時計は、右のような物である。棚は無いが、人形(木坊主)が飾ってある。